都が今よりも、もっともっと華々しかったころ、私はその中でもひときは権勢と財力に富んだ、大殿のお屋敷にご奉公しておりました。
 これからお話をするおぞましき事件は、大殿がお目をかけておられた絵師良秀のことでございます。
 この絵師良秀のことをご紹介いたしますと、その容姿たるやヒキガエルか猿をおもわせ、陰では[猿秀」などと呼ばれておりました。

 良秀は人々の苦悩を表した絵を得意とし、その絵ときたら見るもおぞましく、いやな匂いや、血を吐く苦しみが聞こえてきそうだといわれておりました。
そのような絵をあえて飾ろうなどと、奇特な方はめったにいない上に、ため息の出るような華麗明媚な絵を、良秀は
[お座敷絵
」と称し、注文があっても絵筆をとりませんでした。
大殿が目におかけになるまで、ひどい貧乏暮らしだったと申します。

 そんな絵師に大殿は[地獄」の絵を描かせたことが、これからお話をする事件なのでございます。

 大殿も絵師も亡くなってから幾十年がたち、あらためて名画[地獄変」を見ますと、伝え聞く絵師良秀の悪評とは異なる絵師の真情や、大殿のお心もちが多少なりとも理解できる気がいたします。 
 なにぶん凡夫な私が、権力者や絵師の本質までわかるとは思いませんが、当時の風評は、ねたみ、そねみ、やきもちなどなどか織りなした、小人の嫉妬だったのではと、このごろは思うのでございます。

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