ただ今、信州の観光の一つとなっている「道祖神」の、
男神・女神がいだきあっているお姿の石像は、関東一
円にあったのでございます。
文明開化のおりに、欧米人にはずかしい偶像物だと、
街道筋から撤去されてしまったのです。
わたしなんぞは、庶民の嘘も隠しもない“あこがれ”が
“生産する愛のかたぢとなった、結晶のように思うので
すが‥・。
道祖神祭りは昔は二月の始めに行はれ、民間宗教
の代表的な祭事でございます。
簡単にご説明致しますと、さいさん福の神が“わしゃ知
らん”と、しかとうをしていますが、庶民の悲しいまでの
せつなる願いのほかに、疫病神払いも兼ねているのです。
なにぶん医療が未熟な昔のことですから、病気のほとん
どが庖療神・風邪神・疫病神による厄病神によるものと思っていたのでございましょう。
悪気を払い、厄病神を追い出すために、籾殻・からたちの実・さいかちの実・トウガラシ・煙草・ごまがら・毛・蜜柑の皮・ねぎ・いもがらなどをいぶす地方もありました。
なかには、お客様がきているから厄病神の居場所はございませんとばかり、入り口に蓑・笠をかけたり、入りにくくすために、ひいらぎの菓やくまん蜂の巣などをぶらさげたもんです。いまでも、打ち上げ花火のからは厄払いになると、玄関にぶらさるおたくもございます。
でっかい音で厄病神を驚かすということなのか、火薬の匂いで払うということなのか、今もって分かりませんが
ともかく、この道祖神は庶民の素朴でせつなる願いが迷信・俗信となって、今なお民族学者さんが張り切っている分野でございます。
祭りを司るのは子供サン達でございました。
祠や道祖神の石像の前の道を、泥縄なんぞでとうせんぼうしまして、通行人からお金をねだったのです。
お札などを刷り上げ、各家を周り、なにがしのお金やお菓子をいただいたものです。
頭屋(その年のリーダーの家など)と呼ばれる所に集まって、子供たちだけで会食をしたのでございます。
今で言うリーダーシップの力量が問われ、養われていったのでございましょう。
そこには今日のような陰惨ないじめはありませんし、地域の団結や協力しあう心が育って行ったのでございます。
ただ今は伝統に培われた、子供達による子供達だけの祭りはほとんど無くなってしまい、残っていたとしても形ばかりのものになってしまったのは、残念と言うより悲しゅうございます。
とんだ長話しになってしまいましたので、元に戻りましょう。