水や空気は、確かにありながらその形となると、定まった姿がない。
これを描き出そうとすると・・・・。
私は20代より波や川を描いていたが、水流という水の姿を描いていたにすぎなかった。「流れ・動き」によって、宗教的・哲学的に、様々な意図はあったとしても。
瀑布・激流・清流など、水の動きは、木石の静止した物体との対比から生まれる。
視点を変えれば、木石等は一種のうつわともいえる。
器に入った水を描いていたにすぎなかったのだ。
50歳代半ばに 土石流のすざましき破壊力をまのあたりにしてより、大変革をもたらした。
水の本質の一つ重量を描くことになっていった。
もはや器などいらない(描かない)水の本質にせまるということだ。
さらに、流れや落ちること(瀧・川など)の動きは、一方方向であることに満足できなくなり、エネルギーがプラス-マイナス ゼロになる位置を描きたくなっている現在です。すなわち、吹き上がり、落ちる水塊である。
おそれいります。ただ今編集中です。
水を描く |
作品がないことがあります、御容赦ください。 サムネイル表示になっております。 無断記載をさけるため、解像度を落としてあります。 |