水や空気は、確かにありながらその形となると、定まった姿がない。
これを描き出そうとすると・・・・。
私は20代より波や川を描いていたが、水流という水の姿を描いていたにすぎなかった。「流れ・動き」によって、宗教的・哲学的に、様々な意図はあったとしても。

瀑布・激流・清流など、水の動きは、木石の静止した物体との対比から生まれる。
視点を変えれば、木石等は一種のうつわともいえる。
器に入った水を描いていたにすぎなかったのだ。

50歳代半ばに 土石流のすざましき破壊力をまのあたりにしてより、大変革をもたらした。
水の本質の一つ重量
を描くことになっていった。
もはや器などいらない(描かない)水の本質にせまるということだ。

さらに、流れや落ちること(瀧・川など)の動きは、一方方向であることに満足できなくなり、エネルギーがプラス-マイナス ゼロになる位置を描きたくなっている現在です。すなわち、吹き上がり、落ちる水塊である。

おそれいります。ただ今編集中です。


天地澎湃
墨彩画 90-160
m-1 \60万

天地澎湃 インド
油彩 110-160
m-2 \120万

天地澎湃 ヒマラヤ
墨彩画 90-160
m-3 \60万

天地澎湃
墨彩画 F30
m-4 \30万

清流
墨彩画 90-110
m-5 \40万

天地融合 90-110
m-6 \40万


天地澎湃ヒマラヤ
油彩 F100

水を描く

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無断記載をさけるため、解像度を落としてあります。


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