直情の城より抜粋  写真集・松本城 岩淵 四季

天正18年夏(1590)、石川数正は松本にはいった。50歳半ばをこえていたであろう。2年の後の文禄元年、朝鮮の役にあたって、肥前名護屋に出陣、病を得て逝った。つまり、数正が松本に暮らした歳月は2年にみたない。
 数正には城が必要であった。まだ戦国の余燼がくすぶり、こののちに、関が原の戦いがあり大阪の戦いがあるのである。謀将といわれた彼の目には、東西対決の構図が見えていたのであろう。・・・・・・。松本城を築いたのは、その子康長である。・・・・「領内ノ在家寺院ヲ壊チ取リ人ヲ悩マシ」とあり、彼の城づくりがきわめて短日に強行されたことをうかがわせる。

 松本城の前に立つ。手前にせり出た月見櫓と辰巳櫓を視野から除く。すると大天守と小天守、これをつなぐ渡櫓がのこる。すなわち、これが数正が企画し、康長が築いた松本城なのである。 康長の築城からおよそ40年をえて、松平直政が松本に入り、辰巳櫓と月見櫓を増設した。とりわけ風流花月の遊びの場ともいえる月見櫓は、これまでの武辺一刀のいくさの城構えになごやかな変化とうるおいをもたらした。

 家康の孫にあたる直政のゆとりの所産であったのだろう。ちなみに、天守は手斧削りの栂材が多く、月見櫓には、鉋削りの桧材を多く使っている。

松本城は、数正以来、七度、城主の交替を見た。そして、一度の戦闘も経験することなく明治に至った。

 康長は、慶長18年秋、松本を遂われ、九州の佐伯に流された。官営19年に卒しその墓は建てられなかった。・・・・昭和46年、一体の小さな阿弥陀如来像が九州から松本に帰ってきた。それは、常に父子の身辺に置かれた念持仏で、その金色の仏は、ついに358年ののち、父子にかわって松本城と相見えたのである。

 

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