配給制度

昭和10年代ひどいインフレが続き、パンク状態の財政政策は、次々と物品・物価統制の取り締まり令を公布した。1941年太平洋戦争が勃発し、統制は一段と強化され、軍備最優先の政策であった。1944年にいたり、戦局はいっそう悪化し、物資も不足してくると、統制秩序は困難になっていった。国民は配給では間に合わずヤミにたよわざるをえなかった。1945年の終戦以降のほうが、政府の無策もありさらにひどくなってしまった。

 昭和元年から平成までの家庭史年表(河出書房新社)からアトランダムに記してみよう。
昭和13年1938 日本にパンが普及しだしたのは昭和5年頃。13年にホットドックが銀座に売り出され、たちまち広まっていった。

東京の日比谷公園に防空壕を4基つくり、市民の防空への意識を深めるためにデモンストレーション。本当の空襲にはなんの役に立たなかった。

昭和15年 『草の根をかじってでも聖戦遂行への決意を固めよう』と、贅沢禁止令
16年          物資不足は奇妙な代用品を生み出す。新案「歯の減らないゲタ」だと、木製のローラースケートが売られたと「朝日新聞」が紹介。評論家、大宅壮一は、「代用品などという言葉は本用品が残っている間だけ通用するもので、本用品がなくなったら、代用品のほうが本用品になるのではないか」とからかっている。
17年          パーマネントは止めましょう。贅沢は敵だ。とうとお、大日本婦人会は「決戦です。すぐに長袖を切りましょう」と通達したが、すでになにもなかったのだ。
19年   「朝日新聞」は、雑煮の規格なるものを掲載。一食あたり米四勺で、野菜・魚介類を加え、総量を25勺にするのが適当としている。しかし、現実はもっとひどかった。
戦時中の証言に『母ちゃん、こんど濡れていないご飯を炊いてよ』

201945終戦
敗戦間際の7月の『京都新聞』には、人間の小便から塩を採る方法が紹介されている。当時 の日本はここまで追い詰められていたのだった。
住宅難もひどく、「空いているのは腹と米びつで、空いていないのが乗り物と住宅」という言葉が流行った。

20年   インフレ阻止のため10円以上のお札がすべて封鎖され、預貯金の引き出しが禁止された。

22年 ゛ヤミ米゛拒否で判事が配給米だけの生活で餓死。日記には,食糧統制法は悪だ・・。

inserted by FC2 system