養蚕と製糸業

 明治初期の松本近辺での養蚕業は小規模な副業であった。生糸の海外輸出が軌道に乗るとにわかに忙しくなり、蚕種や桑の改良も進み、飼育規模もかくだいしていった。

明治23年に岡谷の片倉兼太郎が現在のカタクラモールに大工場を建設。水田地帯は商店街となり、日の出の勢いを記念して、日の出町と名ずけられた。

 片倉製糸は名実ともに日本一となり、その権力は様々な企業誘致ばかりか、日本銀行をも松本に誘致できるほどであった。

「男は軍人女は工女 糸をひくのも国のため」と、製糸業の過酷な労働については、作家・山本茂実の「ああ野麦峠」が有名。

 睡眠はわずか45時間。親の危篤も知らされなかった。食料もひどく空腹のあまり倒れるものが続出したと、大正元年に新聞報道されているほど。

 

日清・日露の戦争をえて、日本の資本主義、金万能主義は国是のごとく発展していった。近代工業の中で、とりわけ発展していったのが製糸業で、1911年明治44の輸出は全世界の半分になった。

それをになったのが、製糸労働者で1904年代の135千人から1916年には245千人へと増加し、90パーセントは女性だった。10歳以下を含め20歳以下が6割の少女たちが地獄のような労働を強いられていた。

 三度三度に菜っ葉を食べて 何で糸目が出るものか

 かごの鳥より監獄より 寄宿ずまいはなお辛い

 寄宿舎流れて工場焼けて 門番コレラで死ねばいい

 日本は異常なほどのスピードで発展した資本主義は、人権などという発想すらなかった。強制労働的な就労は、暴力をともなったもので、江戸時代よりひどい権力絶対主義だったといえる。

しかし、黙って耐え忍んでばかりはいなかった。1886(明治19)、山梨県の雨宮生糸紡績場で、日本史初のストライキが決行された。616日の[山梨日日新聞]はその顛末を報じている。

 良質の水を利用しての産業として染物工房も数軒あった。また、紙漉きと足袋の底の漂白は冬の副業として盛んであった。蛇足ながら、足袋の生産は、昭和12年ころは埼玉県行田に続く、全国二番目の生産量であった。

 

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