町割り

松本市内は車で走りにくい。とよく言われる。戦略的に当然の町設計であったが、原則として、京都の町割りに準じて縦横の主通りに小路を割ている。

松本の城下町もほかとかわりなく、武士と町人町とはくぎられていた。女鳥羽川北面のお城を中心に武家屋敷。博労町から親町三町から横田の東側が町人町だった。

町と小路のつながりを記してみよう。

武家地には、地蔵清水・大名町・井戸尻・柳町・葵の馬場地域は上級クラス。中級クラスの町は、出居番町・御徒士町に続き,餌差町・旗町・堂町・同心町・口張町・萩町・天白町などなど、今はどこの通りかわからなくなってしまった。続いて、町人町を歩いてみると、本町----天神小路・鍋屋小路・生安寺小路・同心小路・

伊勢町----鍛冶小路・神明小路 中町----新小路・などなど。 宮村町----庚申小路・風呂屋小路・源智小路。限がないので止めるが、江戸時代にタイムスリップようで楽しくなってくる。もっともっと大切にしたい旧名です。

中 町

天正13(1585)頃の町割りで、商家地域として最も古く位置づけられた。この町は本町・東町と親町三町といわれ、江戸時代の塩・魚などの大問屋があった地域。今見られるような土蔵造りの建物は、明治21(1888)の大火以後のものだ。

 本町・伊勢町商店街がどこにでもあるビル街になっていくなか、出遅れた分だけ独自の蔵の町商店街として蘇りつつある。蔵シック館は酒造屋を移築修復したもの。

高砂通り、古くは生安寺小路

郵便局わきに不思議な小路が一直線(一方通行です)に走っている。かつてはこの町には雛人形の製造・問屋があり、京都の西陣から布を仕入れ,押し絵雛つくりの拠点であった。押し絵雛の製作は松本藩主戸田氏が殖産興業政策の一つとして、武士の内職に奨励したことからはじまった。松本の名産として全国にも知られていたが、明治40年代をピークに、製作者の士族が四散してより、生産がおとろえていった。

四角形吹き出し: 町人地域四角形吹き出し: 武家屋敷角丸四角形吹き出し: 女鳥羽川角丸四角形吹き出し: 松本城円形吹き出し: 東町角丸四角形吹き出し: 中町

餌指町は女鳥羽川をはさんでカタクラモールがある、一方通行の通りです。

交差点には小さな墓地があり、廃仏毀釈でようやく尊像だけが残った[十王堂]は、ガラス越しに拝観できる。十王とは閻魔大王のほか九王のことで、鬼門に当たる道路沿いに、城下の安泰を願い祀られたものです。城下を囲むように四方の鬼門に建てられましたが、現在残っているのはここだけです。

 ご利益がありと信じ、行かれることをお勧めいたします。管理は長正寺がしておられます。

餌指町[鷹の餌を主に調達した」に唯一残る十王堂

市内には江戸時代の町名の石碑があります。
鷹狩の鷹の餌を調達したと言う餌差町の碑

江戸時代に完成した松本城下図

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