玄蕃石

 松本城二の丸太鼓門の巨石の別称。石川氏の過酷な築城にまつわる話として、伝わる。

巨石運搬の苦情を訴えた人夫に、城主石川玄蕃頭康長はたちどころに首をはね、自ら「ものどもさあ引け!」と命令したと言う。

 天守閣を始め城下町を積極的に整備した石川康長であったが、突然、豊後いまの大分県に配流されてしまった。その主な理由として、幕府の許可を受けずして身分不相応な城をつくってしまった、ということだ。
しかし、本音は実力者が江戸の近くに城を構えていることは危険で面白くない。難癖つけた政治的な意図がみえみえだ。あの、大阪城を攻めたものこの手だ。
 その後の松本藩氏は小笠原二代、戸田氏二代・松平氏一代・堀田氏一代・水野氏六代・戸田氏九代とめまぐるしく変わるが、いずれも徳川家と深い関係が有る。
 信濃の国の中心的な城下として江戸幕府は重要視していた証であろう。
 話は少しとぶが、明治維新を迎えた旧藩士は恭順の意をしめすためにも、進んで新政府の言うことをきいてきた。

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