廃仏毀釈


 1868年明治政府は王政復古を宗教的・思想的にささえるため、神道を国教化する方針の下、神仏混こうを禁じた。1870年、廃仏毀釈の命令が出ると、松本藩は全国的にも稀なほど徹底した寺院破壊・仏教弾圧がなされた。

 松本藩では、領内180か寺のうち、廃寺となった寺院が140か寺であった。城内だけを見れば、4か寺を除き23か寺が廃寺となったが、明治10年代から再興された寺院は5・6か寺にすぎない。

 明治4年廃藩置県が命ぜられるまで、狂ったごとく廃仏運動につき進んだ松本藩は、その背景として、新政府に忠誠を誓うタイミングを逸しており、その汚名返上のためにも率先しておこなったともとれる。その功あってか、のちの学校誘致・連隊誘致たどに結びついていく。

旧念来寺鐘楼 松本市文化財

1619の開基。江戸時代、松本藩の歴史書とも言える「信府統記」には、「一層寺域広め寺を新たにし、鐘楼を新築し(1705、 時の金をつかしめた」とあり、松本の城下町にとって大切なお寺だったはずなのに、明治5(1872)に鐘楼以外は取り壊されてしまった。残った銅鐘も太平洋戦争で武器に変わってしまった。

 現存する鐘楼から推測するのに、その規模・伽藍は大したものであっただろう。

 鐘楼の軒は大きく突き出し、吉祥の徴である雲形模様が一面に彫られている。必ずしも珍しい装飾ではないが、実に美しく、私は之を見るたびに、四国金毘羅の見事な雲形模様が浮かんでくるのです。

所々に彩色跡を確認でき、さぞかし煌びやかな極楽世界を現していたと思える。鐘を釣った天井には、彩色された羅針盤が描かれている。

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