武田一族

武田一族の祖は、源平の合戦で活躍した甲斐源氏。長いあいだ甲斐の一小族にすぎなかったが、戦上手の信玄の父の代になると近隣を切り従えた。信虎が現在の甲府市古府中町に永正16(1519)館を設け「甲斐府中」と定めた。これより信虎・信玄・勝頼の武田三代、六十余年間、領国の中心地となった。

 

武田信玄1521?1574

甲斐の猛虎といわれた晴信(後の信玄)21歳の時に、父信虎を退隠させて甲斐守護職となった。

「人は城、人は堀、情は味方、あだは敵なり」の理念で領国をおさめた。

戦略結婚の時代の中で特に涙を誘う諏訪一族の娘、由布姫は、作家・井上靖の創作の名前で、実名は不明。作家・新田次郎は湖衣姫と命名している。

川中島の合戦

 戦国時代の戦の中でも、特に有名。家督を継いだ晴信(信玄)は、信濃にむけて侵攻をはじめた。越後の龍といわれた上杉謙信は関東に侵攻。当然両者は戦いとなってしまう。川中島における龍虎の初戦は1553年。 それから1561年まで、実に、9年間4度の激突であった。

  上 六十二間筋兜・・信玄愛用と伝えられる

影武者

 武田信玄を主役にした小説や映画はたくさん製作されてきた。中でも黒澤明監督の[影武者]  感動した人は多いだろう。影武者の存在は決して荒唐無稽な話ではなく、古くは戦上手で策士の平将門には、七人の影武者がいたという。

 川中島の合戦で、上杉謙信は御大自ら切り込んだことは採光を放っている。二太刀,三太刀,馬上から斬りつけたが失敗。信玄は軍配で防いだ。謙信は出来れば下馬して組み打ちでいくべきだったが、数名の影武者が迫っていたので、絶好のチャンスを逸したといわれる。

 陣に帰った謙信は「もし間違って影武者の首を取っていたら、後世のものわらいになる。」

と語ったと言う。

 また、名将真田幸村も、最後の戦い「大阪夏の陣」で影武者を多用し、家康をほんろうした。いずれも史実に残りにくい[]のことではあるが、確かなことであっただろう。

 江戸時代になっても将軍の影武者は2-30人いた。将軍外出の折には全員将軍と同じ黒縮緬の羽織を着る義務があった。公務中はこの羽織着用・役羽織といわれ、3年に一度幕府より支給された

山梨県甲府市塩山

栄林寺

開山は夢窓国師
武田家滅亡の後、織田信長によって火を放たれた。
[心頭滅却すけば火も自ら涼し」の言葉を残す。重厚な屋根が印象に残る。庭園も緊張感があり必見。

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