十返舎十九 1764?1831

「東海道中膝栗毛」がベストセラーになったのは享和2(1802)である。同年に高美屋さんの招請で松本に続編の取材に来ている。約一ヶ月滞在し、826 日の旅立ちには、町衆から五両ほどの餞別があつまった。続編の物語には、相変わらずの弥次朗兵衛・喜多八が駕篭かきから酒手をせびられ大喧嘩をしている。松本に入ると「ほどなく松本の御城下にいたりければ、『いく千代をふりゆく見ゆる枝町もしげる常盤の松本の駅』、この城下にいたって繁盛のところにして、町並みよく商家数多軒をならべて、往来殊に賑はひたり」と描写している。さらに、「夕ぐれの雲のはた手にほととぎす ここにこもりてなける山城」と詠んでいます。

十九の本名は重田貞一、駿府の生まれで若い頃7年ほど大阪に居たことがある。その後、江戸て戯作者の群れに加わり、黄表紙などを書いたが、かくべつ評判にはならなかった。そこで新趣向の道中記をもって世に問おうとしたのである。

名声をえていない十九のこの新趣向は、なかなか、版元の受け入れるものでなかった。ようやく村田屋が出版を引き受けてくれたが、それは作品を認めてくれたと言うのではなく、板下も挿絵も十九が一人でやってしまうので、出版費が安く上がるという理由からであった。



天保
2(1831)87日、[続々膝栗毛]第二編刊行のあとをうけて、さらに追加の案を練りながら果たしえずして死んだ。享年67 

  物語は駄洒落と軽妙な会話だ。古典落語の人情劇の趣を感じ、ただのギャグでなく、今時のその場限りの漫才とは格段の差がある。一読あれ・・・。 

 郷里の静岡を食いつぶし、江戸神田八丁堀新道裏の棟割長屋に住み着いた栃木屋弥次朗兵衛。もって生まれた陽気から遂には女房にも逃げられてしまった。さすがの弥次さんもガックリ。もう、住み慣れた江戸といえども面白くない。お伊勢参りから京大阪にでも旅に出よう。しかし、一人じゃあつまらない。ちょうど、お店でしくじった喜多八が転がり込んでいた。この若者は底抜けの暢気者。トントン拍子で話はまとまり、家財道具を売り払い「さあ、喜多公、出かけようぜ」「おっと合点・・」時は文政4年の2月半ば・・・。

昭和34年発刊の平凡社版・田岡典夫解説より

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