江戸期の紀行り

七夕さま

 

私がご幼少の頃、77日の七夕には、里芋の葉にたまった朝露を集めるように母にいわれた。その水で墨をするのである。「いったいなんで?」と思いつつも、調べることもなく今日に至ったが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の執筆のなかに、そのいわれが書かれていた。以下、「天の川縁起」から抜粋しよう。

 古い日本で行なわれてきた楽しいお祭も数々あるが、中でも一番ロマンチックなのは 七夕さまつまり[天の川の織姫]のまつりであった。・・・・・・と始まり、中国伝来の七夕物語や日本化した物語をいくつか紹介している。そして、 「どうやら日本における七夕祭りは、最初今から1150年前に、シナの先例に従って、もっぱら宮廷の祭事として確立されたようにおもわれる。その後日本全国の貴族および武士階級が宮中の行事にならって、一般にいわゆる星祭を祝う習わしが徐々に下に及び、しまいに77日が、[七夕]の言葉の通りに、国民の祭日になったのである。」さらに、七夕祭が本当に国民の祭事となったのは、徳川時代からだとし、その理由として紙が安くなったことを上げている。 さらに、7月7日には未だ暗いうちに起きて、芋の葉から露「天の川のしずく」をあつめる。その水で墨をすり、七夕に飾る短冊に書く。友達の間で新しい硯をプレゼントしあう。

 小泉八雲は、七夕伝説は中国から入ってきたものには違いないが、万葉集の歌の数々から、純粋に日本古代の生活と思想を感じると絶賛している。記述なかで松本の七夕祭りと似た事が書かれ、注意を引いた。出雲の習わしに、男竹と女竹を一間ほどはなして立て、はり渡した縄に、切り紙で着物をかたどったものを飾ったとある。紀行作家として有名な菅江真澄の『くめじの橋』に、 山辺湯の原の七夕祭りをイラスト入りで紹介し、上記と類似していて面白い。

 

七夕人形

子供の祭り関係で松本の独特なものに、板や紙に顔を描き、着物を着せた七夕人形がある。江戸時代の中頃にはこの習俗があったようで、水野家の家臣の回想記に、『七夕には赤・青・黄色等の紙にて、羽織形を裁ち、木にて七夕となずけ拵え、右羽織を着せ、6日より細引きに通し、あいだあいだへおんな七夕を紙に裁ち、懸けおく也。』

 江戸時代、松本から越後の一部にかけて七夕に人形を飾る習わしは、当時も中央の文人墨客に注目されていた。松本押し絵雛と同じく、顔を描いた板は士族の内職だった。

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