土 石 流 540cm X 180cm

女鳥羽川上流域に住んでいる私は、ちょっとした程度の雨でも、清流が濁流へと一変する様を幾度とか観察をしてきた。すざましいエネルギーの爆発を何とか描き出したいと念じてはいたが圧倒され、我が身に受け止めきれない対象の大きさに屈服されていた。それでも、描き出したいと思い立ってより、数年間のデッサンがたまっていた。

 2004年の豪雨は,砂防堤が崩壊してしまうのではないかと、危険さを感じたほどだったが、胎内から湧き上がってくる製作エネルギーを感じ、製作に一気にはいった。

完成まじかい10月、アトリエがグラッときた。新信越地震であった。

 

災難続きの城下町

江戸時代、土蔵造りは町屋には許されず、大火事はよくあった。観光的に松本は土蔵の町といわれるが、これらは明治の大火事以後の建築です。それでは、主な火事と、災害を記してみよう。

 明治21(1888)1月4日、本町から出火。南風にあおられ延焼。焼失家屋1600戸、焼死者5人。

明治45(1912)422日、裏町から出火。南南東の風で市内東西4丁、南北12丁延焼。

焼失家屋1500余。死者5名。罹災者1341人。

 水害も結構あった。

遡ってみると1742年、1798年。慶応元年1865大火と洪水に見舞われた。女鳥羽川・薄川はおろか、あらゆる小川からも水があふれ出た。ただただ「南無阿弥陀仏」と唱えるのみだったと書かれている。

1854年の安政の大地震では、町屋は潰れたうえに出火。藩の対応は素早く、差別なく焼失の家に対し、金一両、白米二表、炭五俵が即配られた。また、半焼半壊も程度によって支給された

 

明治29(1896)721日。女鳥羽川が決壊。民家は当然だが開智小学校(本町と女鳥羽川の角) も襲い、「講堂の北端より廊下を境に西の方126坪」を破壊流失したと書かれている。

 明治44年は6月と8月のダブルパンチで、女鳥羽川と薄川が決壊。浸水被害は700戸以上。

昭和341959年--台風七号が直撃し、大水害は記憶に新しい。

普段は大きな鯉がゆったりと泳ぎ、鴨や五位鷺が住む女鳥羽川は、上流域の少しの雨でもたちまち濁流が流れる川となってしまう。古来から暴れ川と言われてきたが、今でもそのことは少しも変わっていないのだ。

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