加助騒動

1685年の大飢饉のとき。収入の七割を納めよという水野氏の暴政に、百姓たちをまとめ、立ち上がったのが中萱村の庄屋・加助であった。直訴の罪は極刑で、加助ら28名は刑場の露ときえた。このとき、ハリツケ柱からキッと城をにらみ加助は叫んだ。「わしの恨みで天守閣をかたむけてみせる!」・・・事実、明治時代の写真に傾いた城が写っている。

 また、40年後、藩主水野田忠恒が江戸城中での刀傷事件で改易となった。

 城山公園は、犬飼・小笠原氏が居城して松本城の北面の防御地とした所。その地に義民塚がある。また、公園の西はしに刑場跡の碑が建てられている。

 明治時代になると、加助は「義民」と、自由民権運動の先駆者として評価され、物語(昭和19年刊行相馬黒光『穂高高原』が面白い)や映画制作されたといいますが、まだ確認できていません。

明治初期の傾いたお城             明治10年の[義民加助」としての挿絵

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