伊能忠敬の測量(1745--1818)

 「御用」と濃紺の地に、白く染め抜かれたノボリをかかげた幕府の測量隊が松本城下に来たのは1814426日であった。当時70 歳の忠敬いか4名徒僕・人夫であった。測量にあたっては、土地の役人はもちろん町方・在方が協力をした。

 伊能忠敬は今の千葉県生まれで、名主を務めたが、50歳に家督を譲り隠居後、江戸に移住して天文学・測量学をおさめた。17年間にわたり全国の沿岸・島々・主要街道の測量を続け、「大日本沿岸輿地全図」は、その後の官製地図のもととなった。

 索引としてはまーこんな記述になってしまうが、人間の一生はこんな単純なものではないだろう。
私の好きな作家・井上ひさしさんの作品に[四千万歩の男」と、忠敬の小説がある。枕替わりにはなるが、寝て読むには腕がくたびれたが、言葉の調子のよさに一気に読んでしまった。
 そこで、小説から得たにわかネタをご披露しますと、資産3億ほどの豪商に婿養子に入った。奥さんは早死にしたようで、後妻を向かい入れ、50歳の隠居時には少なく見ても70億を超えた資産であった。大変な実業家だったわけである。しかし、資産にこだわらなかったのが立派。かねがね興味のあった数学・・和算の結晶ともいうべき、天文学の勉強にはいった。高橋至時をはじめとした当代一流の学者のスポンサーとなって教えてもらったようだ。
 1800(56歳)年に幕府の命を受けて蝦夷地の測量を始めてより以後17年間、ひたすら全国の沿岸を歩き続けた。その距離約三万五千キロ。歩数にして約四千万歩という化け物みたいなお人だ。それも、幕府からの手当てはたいしたものではなく、身銭を切っての大仕事だった。
 測量法は基本的には歩幅(90cm)X歩数であった。作者の井上さんに言わせると゛足で地球を測った男゛ということになる。さらに歩く先に水溜りがあろうがウンチが鎮座していようが歩まねばならぬわけだ。
 ところで、緯度一度の距離はいかほどなものかが問題であった。忠敬は28里2分とかなり正確な距離を割り出した。
 書き出したら井上さんの作品をそこなってしまうので止めますがいま一つ。
幕末時にイギリスの測量隊が忠敬の地図を見て余りの正確さに仰天し、もう測量の必要がないと、帰えってしまったという。それ以後、明治30年ころまで使われていた。

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