当国一といわれたほど豊かな経済を支えたのが、
親町三町といわれた、本町・中町・東町。
この通りは長野市の善光寺につづく善光寺街道だ。
 そのころ松本の城下町は、今日以上に交通の中心地で、
荷物を背負わされた牛馬がひっきりなしに行きかい、
旅籠・ビジネスホテルがたくさんあった。
 歴史の勉強で、日本の地図を作り上げたという、伊能忠敬ってきいたことがあるズライ。
1814年に測量隊が街道を測量している。
しかも、たった一日しか松本には居なかったから、仕事一途のガチガチで、
とても物見遊山などしなかったズラ。
 「測量日記」によると朝6時に出発。
岡田の宿場から測量をしながら午後一時には、四賀村(現在は松本市)に到着している。
早く着いたからここいらでイッパイかと思ったら、夜は星の観測。
なんと70歳の現役だったから、たいしたもんだねー。

 江戸時代は伊勢神宮に参詣にいくことがはやり、
1830年代のピーク時には、当時の人口の六分の一にあたる500万人が伊勢にむかった。
善光寺街道も旅人だらけで、中町の町衆はお茶お菓子ばかりでなく、
オ赤飯なんぞを振舞ったと言うジ。なんかジーンとくるいい話だいね。

 土蔵の町並みは市内観光の見所だけんど、実は江戸時代のものではない。
江戸時代は、好きなように家を建てられなかった。
屋根はほとんど桧皮葺で、大火事がよくあった。
 火事の話となると時代は大きく変わるが、明治22年(1888)一月四日、本町から出火。
南深志一帯は火炎地獄となってしまった。
 火事に強い町にしようとほとんどの土蔵は、武士制度がなくなってから建てられたものだ。
お城を作った職人さん、特に左官屋さんの技術は、全国的にも高かったと言うことだジ


                                                       

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