名月のご覧の通り屑家哉        一茶

 まるで我が家のことを詠んでいるごとくですが、月の光りに照らされるとぼろ家もけっこう趣があります。30歳代からの一人旅の体験から、とんでもなく離れた地域や、異種民族でありながら奇妙なほど似通った文化や習慣にであってまいりました。歴史・文化・風習などの相違を承知の上で「人間って何だ」と端的につめていくと、「祈りの形」が共通ではないかと思います。
 軍用トラックが絶え間なく砂塵を吹きあげるなか、一心に五体投地をしながら我が身長一づつ進むチベットのラマ教徒。ラマダーン(イスラム教徒の断食月)のとき、私がやとったバイクタクシーの若者は、一日のカイド中何も口にしなかったが、「お前は仏教徒だから」と私のためにパンを買っておいてくれた。
 春を売った少女が、オレンジ色に染まった朝霧が立ちこめた町角に座し、托鉢の僧侶を待っている無垢な祈りのすがた。「祈り」とは「お願い」ではないと気づかせてくれた人たちです。

 無防備でいながら完全な姿。それが「祈りの形」であり、一切を超えた人間の美しき姿といえます。祈りの形は、直角に交わる座標軸XYZと同じで、自分自身の精神空間を創造し、感知しているのだとおもいます。それは、数学的にも同じ形なのです。空間は、大宇宙のごとく広がり、空間の中における位置を明らかにしてくれるのです。それ故に強く「不動の形態」といえます。「祈りの姿」はそのような宇宙エネルギーが働いているといえるのです。

名月をとってくれろと泣子哉     一茶

自己の生命体を知覚する

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