菜の花や月は東に日は西に   蕪村

 広い、とてつもない広さです。蕪村は絵画をよくしたので、この句を絵画的な空間として見る向きもありますが、この句は絵画空間をつきぬけている。私には菜の花畑はおろか、月も、作者の存在すら消え、ただただ広大な空間しか感じられないのです。
 私の体験からのことですが、スペインでこの句と同じ雄大な風景の中に入り込んだことがあります。但し菜の花ではなく、いけども行けどもヒマワリの畑で、イタリヤ映画の「ひまわり」シーンそのものでした。
 また、中国がまだ自由な行動ができなかったころ、シルクロード一帯を地方バスを乗り継ぎしながらの旅は、思い出してももう二度としたくない芯から厳しい旅のことでした。一日移動しても小石まじりのゴビタン砂漠が広がり、澄んだ清水の深みのごとき空にポカンとうかんだお月様が、どこまでもついてくる。私の肉体など蒸発してしまい、精霊となって天空に遊んでいる自分を感じました。この歌はまさにそのときと同じだといへ、菜の花は作者の蕪村でもあるし、精霊でもあり、天地すべての空間が蕪村です。曼荼羅世界が具現しているともいえます。

荒海や佐渡に横たふ天の川    芭蕉 (奥の細道)

 蕪村の広がりもでかいが、この句にはとてもかなわない。宇宙そのものです。
映画の「2001年の旅」「スターウォーズ」「銀河鉄道」など、特撮かアニメ世界で、月・太陽・精霊 宇宙全体が生命体として輝いています。次いでながら、
芭蕉さんの書はきまじめで繊細と思いますが、時として流れ星のような鋭さがあり、背筋が伸びる男の書だと感じます。

徹見・・ようやく知的理解を超えて
存在の根源が観えてきた

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