人知れぬ大内山の山守は
        木がくれてのみ月を見るかな
 

                                          源頼政

恋歌は貴族制度や人間付き合いのストレス解消の手段だったのではないかと、勝手な解釈で読み進むうちに、もっと辛辣な叫びに近い歌がないかとあてずっぽにページをめくる。誰でもが成功と失敗、喜びと悲しみ、悲喜劇のドラマのなかに生きている。「あかあかや月」の心境にそお簡単に到達できるわけものい。そんな歌がないものか・・・。 あったあった有りました。源頼政といえば゛平家でなくば人でない゛と、この世の春を満喫していた平家に兵を挙げ負け戦で戦死した武将ではないか。歌人としても活躍しようでさすがにぼやきも美しい。「山守・・御所警備の役職名」。だから木々の間から月を見るんだ。と解したらお笑い草で、謳われている「月」は帝のことで「木がくれ」とは頼政を面白く思わぬ上司のことらしい。武士だけあって、ぼやきは恨みとなってクーデターを起こしてしまった。 私事で恐縮ですが「会社は俺たちの努力を認めて、給料をあげろー」と反旗を振り回しましたが、振り向いたら誰もおらずたちまち首になってしまいました。

   ふくかぜに我が身をなさばひさかたの
      つきのあたりに雲あらせじ
   
                         
                                   三条西季知(すえとも)

 幕末・明治の公卿で王政復古のために活躍後、明治天皇の歌道の指導にあたった成功者ですが、この歌は幕末の動乱期に京都を追われる夜での一首といいます。この「月」は天皇のことで「やむえまい、いったん逃げよう」という切羽詰った緊張感と見極めを感じます。
 人間関係が濃密になりすぎますと、耐え切れなくなって自滅か、破壊かしてしまう事件が増えています。我慢が足りないということもあるかもしれないが、現代は社会も人間もスケールが小さくなっているような気がしてなりません。人間関係の第一歩である親子関係が、必要以上に小さくまとわりつき、濃くなりすぎていると思います。現代人は万葉人のように「のほほーん」とした社会や人間にそだてあげなくてはならないと思えてなりません。

心の郷愁にきずいたが故に、自己存在意識の苦悩が生まれるが光明でも在る

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